ハイコーフェス9

【ボクが大好きなPLUTATA+について】

 

最後のハイコーフェスまで残り2週間を切りましたね。

もうすでにいろんな想いが入り乱れてて胸が一杯のはずが、

なんでかいつもよりソワソワしたりもしてなくて、

穏やか以前に「厳かな気分」です。

 

連日連夜で準備も進んでて、

恒例の「石川飴子さんの顔ハメパネル」が完成したり、

最初で最後の「おめでたい垂れ幕」も完成したりで、

ハイコーフェスのために一緒に作ってきたものが、

どんどん形になっていって、

それと同時にどんどん終わっていっています。

完成して嬉しい気持ちと完成しちゃって哀しい気持ちが同居してて、

まあ相変わらず涙は出ないんだけど、

「こんな感じが終わるって事なんだろうなー」って、

改めて「終わり」を実感しています。

 

ちなみにこの間は「好調です!」なんてお知らせ出来た前売り予約数は、

今日現在で196人で、

でもまだまだここから脅威の粘りがハイコーフェスですからね、

「無謀」が「奇跡」に繋がる様を何度も見て来たつもりなので、

ここから「完売」まで意地でも巻き返していくんで、

どうか最後まで一緒に成し遂げてくださいね。

 

そんな訳でまだまだやらなきゃいけない事ばかりですが、

最後の二週間は「やつれる」くらいにやってやりますよ!

ここらでそろそろ「箍(たが)」を外す時ですね、

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです!」

 

そんな訳でまだこんな事してるのかって笑われちゃうけど、

いよいよ佳境の出演者紹介も10組目です!

ハイコーフェスに降臨する神々の戯れに浄化されるが良い!

「あなたは神を信じますか?」、

「PLUTATA+」の登場です!

 

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【ボクが大好きなPLUTATA+について】

 

「そのまんまでいいと思うよ」

ボクは今、プルタタの「はじまりのうた」を聴きながら、

プルタタとハイコーフェスの7年間の想い出を振り返っています。

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いろんなことがあったよね、本当にいろいろあったよね

忘れよう、哀しいことを、苦しいことを、悔しいことを

忘れよう、正しいことを、許せないことを、譲れないことを

忘れよう、過ぎ去ることを、やって来ることを、とどまることを

忘れよう、忘れちゃいけない、この世で一番大事なことを

もう一度ゼロから数えるよ、今から全てが始まるよ

いろんなことがあるんだろうね、そのまんまでいいと思うよ

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まさに「はじまりのうた」の歌詞そのままに、

「最後の最後のその罪」を抱きしめています。

 

もう何度も書き尽くした「ボクが大好きなプルタタについて」ですからね、

今更なにを紹介したら良いのかろいろいろ考えてみたけど、

考えれば考えるほどやっぱり行き着く先はいつもこの言葉で、

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って、

あの言葉を思い出してしまいます。

 

 

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」は、

ハイコーフェス6で、ゆーにゃんさんがライブ中に何度も口にしてくれた言葉で、

ハイコーフェス7で、ゆーにゃんさんがライブ中にボクに正対して叫んでくれた言葉です。

 

ボクにはどれだけ忘れられない言葉でも、

「想い出」はどんどん塗り替えられていきますからね、

「ハイコーフェス6、7」なんてもうすでに古い想い出の話、

今でもちゃんと覚えてる人がどれだけいるのか不安なので、

ちょっとだけ想い出を書きますね。

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」の話です。

 

「どうでもよくなってからがハイコーフェス です」って、

正確には「平井正也さん」の「PON」ってCDのジャケットに書かれていた、

「どうでもよくなってからがロックンロールです」って言葉をボクが見事にパクっては、

あたかも自分で考えた風に乱用していたハイコーフェス6の素敵なキャッチコピーで、

でも「あの日」から「この台詞」って、

大変失礼ながら平井さんの言葉ではなく、

もちろんボクの言葉でもなくで、

プルタタの言葉、「ゆーにゃんさんの言葉」として、

ハイコーフェスの歴史の中で永遠に語り継がれている「特別な言葉」となりました。

「浄化」されるなんて書くと大袈裟かも知れませんが、

でも本当に「あの言葉」を聞くだけで「ありがたい気持ち」になれる、

ボクのハイコーフェスにとっての「お守りみたいな言葉」でした。

 

 

ところで「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って、

考えれば考えるほど奥深い言葉ですよね、

捉え方もその都度その都度で如何様に違って見えて来るし、

そもそも「どうでもよくなる」に「意味」なんてあったんでしょうか?

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って一体何なんでしょう?

 

「どうしてハイコーフェスを辞めるんですか?」っていろんな人から聞かれますが、

ボクはここ何年も本当に疲れ果ててしまっていて、

ハイコーフェスを続ける事自体が自分では「奇跡」って思えるくらいに、

身も心が「空っぽ」になってしまっています。

こんな自分は嫌だけど、こんな自分にしか出来ないのがハイコーフェスだから、

こんな自分のままハイコーフェスを続けるしか他に方法は思い付かなくて、

自分で自分が「間違ってる」ような気分になって、

ただ「この世界から逃げ出したい」だけなのかも知れないけど、

無性に自分の中の「想い」や「正論」に耳を閉じたくなる事が多々あって、

いつも頭の中はそんな事の繰り返しだから、

なので「ハイコーフェスを今終われて、本当に良かったなー」ってつくづく想っています。

ちょっと何言ってるのか分からないと思いますが続けますね。

 

ボクは最近になってやっと自分の中で整理がついたと言うか、

改めて「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って言葉と向き合ってみたら、

何でか急に気持ちが楽になって、

ハイコーフェスには初めから「正しい事」なんて本当は1つも無くて、

「全部間違ってた」って考えるようにしてみたら、

「全部どうでもいい気分」になって、

「どうでもよくなる」って、「これ」の事だったのかなーって思って、

だから「ハイコーフェスを今終われて、本当に良かったなー」ってつくづく想いました。

本当にちょっと何言ってるのか分からないと思いますがもう少し続けますね。

 

もし仮に「ハイコーフェスを続けるためにボクが必死で悩んでいた事」を総称して、

それを「どうでもよくなった事」と仮定すると、

そういうのを全部乗り越えて「続ける」って選択をして来た「今までのハイコーフェス」が、

「どうでもよくなってからのハイコーフェス」だった訳だけど、

これが逆に「ハイコーフェスを終わりにするためにボクが必死で悩んでいた事」に置き換えて、

「それ」を総称して、「どうでもよくなった事」と仮定すると、

「終わる」って選択をした「今のハイコーフェス」が、

「どうでもよくなってからのハイコーフェス」になる訳で、

そしたら「あんなに悩んでいた事」も結局はその時々で状況が変わっていて、

「どっち」が「絶対に正しい」なんて事は決して当てはまるものじゃなくて、

ボクがハイコーフェスをここまで続けてこれたのって、

「続ける事」が「絶対に正しい事」だと思っていたから続けてこれた訳だけど、

でも「今」は違って、「終わる事が正しい選択」な訳で、

そしたら自分で「これが正解だ!」って信じてた事が逆転しちゃってて、

「正解」はあるんだろうけど「正しい事」なんかなくて、

「正解」はあるんだろうけど「どうせ全部間違い」で、

なんか全然言語化出来てなくて伝わってる分かりませんが、

「どうせボクも君もみんなも全部間違ってる」って思ったら、

憑き物が落ちたみたいにスーッと心が楽になったんです。

 

なんとなく「同じ意味」に思うかもしれませんが、

これが「どうせボクも君をみんなも全部正しい」だとやっぱり違って、

それだとまだ「何か」に執着してて、ボクはまだ「その段階」にいて、

本当の意味で「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」には、

「なり切れて」いなかった気がします。

「全部正しい」だと「みんな正しいけど、でもオレの方が正しい!」って、

まだ「何か」に「しがみついてる感じ」がありますよね、

でも「全部間違ってる」だと「みんな間違ってるけど、でもオレの方が間違ってる!」って、

なんかこれは潔いほどバカらしくてカラッとしてて気持ち良いですよね。

一見同じ事を言ってる気もしますが、「何か」が決定的に違いますよね。

「正しい」だといつまでも本当の意味で「どうでもよく」なんかなれなくて、

「間違ってる」だと「まだそんな事にこだわってるのか!」って、

「どんなに争ってもどうぜ間違えてるだろ!」って、

全てがバカバカしくて「どうでもよく」思えますよね、

 

ボクが「ハイコーフェスを続ける事」が「絶対に正しい」と思っていたのは、

きっと「人の目」を気にし過ぎていたからで、

どこかから「人の目」ばかり気になり始めてしまって、

ボクはハイコーフェスの全てを「楽しい」じゃなくて「正しい」で選ぶ様になっていた気もします。

 

周りの人の目が気になるのって、

自分が周りの人を見まくってるからですよね、

「君」がどう思うかとか、

「みんな」がどう思うかとか、

「出演者」がどう思うかとか、

「楽しみにしてくれるお客さん」がどう思うかとか、

「バカにしてくれたあいつら」がどう思うかとか、

「きっとみんなやりたいだろうなー」って、

「きっとみんな続けたいんだろうなー」って、

「あいつらに負けた気になるから終われないなー」とか、

全部勝手に自分で決めつけていたからで、

そもそも「ボク」が「みんな」を巻き込んでるのに、

ボクがハイコーフェスを終わらせるなんて変な話で、

「裏切り者」や「悪者」になるのが嫌だったのかも知れません。

 

でも別に誰も「そんな事」なんて思いませんよね、

多分みんなボクの事を「ゆるして」くれたはずだし、

今だって「許されている」訳で、

ボクの「思い込み」なんて「自分の中」でしか通用しないことですよね。

でも言葉にすると子供でも分かるくらいに「簡単な事」に気付けないくらいに、

ボクは「人の目」ばかり気にしていたのかも知れなくて、

「絶対に正しい事を選び続けていく事」が「ボクのハイコーフェス」になってた気がします。

「ボクが間違ってはいけない!」、

そんな気持ちのまま、ずっと「正解」を探し求めていた気がします。

 

ついこの間、ボクと近江さんと澁谷くんの3人でラジオに出演しました。

「ハイコーフェスへの熱い想いを話して下さい!」って感じに

「ハイコーフェスってどんなフェスですか?」とか、

「ハイコーフェスでの想い出は?」とか、

「どうして今回で最後なんですか?」とか、

「ハイコーフェス後の次の展開はあるんですか?」とか、

それぞれが1つ1つに答えていく感じでみんな好き勝手言い合って、

その時に同じ質問に対してみんな全然違うこと言ってて、

正直ね、「ラジオ収録なんかしてお客さんが増えてくれるかよ!」って面倒臭くてね、

自分的には「どうでもいい時間」だと想っていたんだけど、

でもみんなとの何気ない会話の中に「正解」が隠れてた気がしてハッとして、

「やっぱりどうでもよくなってからがハイコーフェスなんだなー」って、

今は「どうでもいい時間」に感謝すらしています。

 

ボクも近江さんも澁谷くんもみんな天才ですよね。

ハイコーフェスを愛する真の天才です。 

でも「ハイコーフェスを愛する天才」が同じ質問をされてバラバラな事を言ってて、

その筋の専門家で天才のはずがみんなバラバラな「正解」を出してて、

じゃあ何が本当に「正しかった事」だったのかさえも、ボクは分からなくなったんです。

「こいつらはバカなのか!」と、「バカと天才は紙一重だな!」と、そんな風に思ったんです。

でもボクと同じように二人もボクをそう思ったかも知れませんよね。

それこそボクの愛はエグいですからね。

 

同じ方向を見て進んで来たはずの天才たちがですよ、

みんな口々に「違う正解」を答えている訳ですからね、

この世に「正解なんて無い!」ってよく聞きますが、

この時こそ心底そう思った事はありませんでした。

最も長い時間、最もハイコーフェスを愛してくれたはずの二人とさえも、

やっぱり全部が全部までは「同じ気持ち」ではいられなくて、

どうせ答えがないのなら、答えとか、正しさとか、真実とか、真理とか、

そんなの探しても永遠にボクには分からないままで、

答えがないなら「ボクも含めてみんな全部間違っている」って事にしたら、

何だかボクの信じてたハイコーフェスなんて「逆さま」に見えたんです。

 

どうせボクらは全部間違ってる、どうせ違う。

1年前のボクは全然違う事を言ってるし、

1年前の君も、1年前のみんなも、全然違う事を言ってて、

真実なんてその場その場で変わってどうせ答えなんてなくて、

だったら「正解」や「正しさ」を「基準」にするなんて、

そんなのただの決めつけでしかなくて、

「ぼくはどうせ全部間違ってる」、

「君もどうせ全部間違ってる」、

「どうせボクらは全部間違ってる」と分かった途端、

「ハイコーフェスの卒業試験」には「ただ楽しむ」って「解答」をして、

それで「豪快に間違えたいな」って、そんな風に想ったんです。

 

めちゃめちゃ遠回しに書いちゃってますけどね、

一言で書くなら、

「どんなにハイコーフェスを想っても正解なんか掴めなくて、それよりハイコーフェスを楽しめば!」って事で、

それもこれも全部、「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って、

あの言葉があってくれたからこそです。

 

なので多分だけど、ゆーにゃんさんが言ってくれた、

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って、

「どうせ全部間違ってるなら正しさではなく楽しさで、真実ではなく笑える方を選ぼう」って事で、

それが今のボクが考え抜いた「最後のハイコーフェスの答え」です。

もちろん「それ」も「どうせ全部間違っています」よ、

ハイコーフェスの向こう側を見た訳でもないし、

明日にはまた「違う答え」が見つかってるかも知れないですしね。

でも間違ってて良いからボクは最後のハイコーフェスを楽しみたいし、

最後だからこそ笑って終わりたいんです。

間違ってても良いから「君」にも「みんな」にも、

ただ楽しんで笑って終わりにしてもらいたいと心から思えたんです。

「最後のハイコーフェスが楽しんで笑って終わり」なら、

そこに「罪」なんて1つもありませんよね。

「ボクの想いなんかどうでもいい」、

「君の想いなんかどうでもいい」、

「みんなの想いなんかどうでもいい」、

「ハイコーフェスなんかどうでもいい」、

「それ」をボクは「どうでもよくなってからのハイコーフェス」だと思っていたけど、

「それ」だとやっぱり少し淋し過ぎるから、

「どうせボクらは全部間違ってる、どうせ違う!」って全部を笑い飛ばして、

「いやー、お宅も相当なバカですねー!」って笑い合えたなら、

そしたらほら「ハイコーフェスが終わる事」なんて、

「笑える程にどうでもいい事」の様な気がして来ませんか?

「どうでもよくなってからのハイコーフェス」が余計に楽しそうで待ち遠しく思えませんか?

 

これ読んで「何難しいこと言ってるの?頭バカなの?」って思った人は余計にです。

「自分の正しい」なんて「全て間違ってる」って思ってハイコーフェスに来てください。

ボクも君もみんなもハイコーフェスも全て間違ってます。

そしたら「どうせ全部間違ってるなら正しさではなく楽しさで、真実ではなく笑える方を選ぼう」って、

 ハイコーフェスは「何かが正しいという前提」があってこそ成り立ってた気でいたけど、

全部どうせ間違ってるなら悩むだけ無駄で、

「今」を楽しめた人が、「今」を笑えた人が多分1番「しあわせ」で、

ボクが「ハイコーフェスが今終われて本当に良かったなー」って想えたのも、

「今」のボクがそれを選んでいるからで、

来年の春には後悔してるかも知れないけど、

でも「今」思った事を「今」出来るなんてサイコーですよね、

「今」思った方を選んで、楽しんで笑って、それでどうせ全部間違えて、

そうやって「どうでもよくなってからのハイコーフェス」を、

「あー、こんなバカなフェスがあるかい!」って、

潔いほどカラッとした気持ちで笑って終わりにしてやりましょうね。

 

きっとね、最初から「どうでもよく」なっていたら、

こんなにも「どうでもよく」なんてなれてなくて、

たくさん迷って良かった、

たくさん悩んで良かった、

たくさん想って良かった、

たくさんたくさん間違えたハイコーフェスだからこその、

これが本当の「どうでもよくなってからがハイコーフェスです!」なんですよ。

 

 

そんな訳でハイコーフェスを「楽しんで笑って終わる」ためには、

そうです!何はなくても「プルタタ」なんです!

プルタタがいていてくれない事にはボクは心から楽しめないし、

「どうでもよくなんて」一生なれません。

細かい事を言えば、去年は「2人jaaja」での出演だったのですが、

今年は「プルタタ」での出演で、そりゃあもう「オールスターズ」での出演です。

一度でもプルタタを見てくれた皆さんなら忘れられませんよね、

最後のハイコーフェスはプルタタの登場で「一生忘れる事の出来ない想い出」になる事は確定しています。

 

もはや説明不要のプルタタでしょうが、

去年のjaajaとゴッチャになってる人もいるかもだから少し説明しますね。

 

プルタタは男女6人組の「子連れ覆面楽団」で、

ギターボーカルの「ゆーにゃんさん」に、

チェロ弾きの「クミちゃん」、

ハープとピアノの「マドカさん」に、

手製のドラムの「トッキーさん」、

道化師の「キノちゃん」、「ニノちゃん」が縦横無尽に走り回る、

「ちょっと可笑しな得体の知れない楽団」です。

海のものとも山のものとも分からない、

ちょっと不気味な怖いお面がトレードマークで浮世離れしていて、

まさに「ハイコーフェスの花形」、「ハイコーフェスの千両役者」で、

ハイコーフェスが「ただバンドが歌うだけのフェス」で終わらないのも、

この人達がいてくれたおかげで、

ハイコーフェスの敷居を上げてくれたと言うか、

ハイコーフェスに「格」を付けてくれた気がします。

初めて見るお客さんは本当にみんな目を丸くしていて、

「グワァーーーーー」って迫り来るような、

「なんじゃこりゃーーーーー」って叫びたくなるような、

全てを受け入れて、全てに身を任せて、全てに許される

「諦め」とはまた違う、でもなんでかいつも、もの寂しくて、それでいてやさしくて、

数いる歴代ハイコーフェス出演者の中でも、とにかく指折りのスゴイ人気者です。

 

いつもボクがこの人達を紹介する時に便利な例えがあって、

皆さんはイソップ童話の「ハーメルンの笛吹き男」って知ってますよね?

「ブレーメンの音楽隊」は知ってますよね?

プルタタはこの二つの童話を足してしまった感じもあり、

それでいて「神社のお祭り」みたいな「日本古来の伝統的」な感じもあります。

どちらにも共通して言えるのは、得体の知れない「不気味さ」や「怖さ」ですよね、

なんて言うか「灰色」って感じの「息を飲む感じ」があります。

プルタタが登場した時の「その心がザワつく感じ」を引きづりながら、

でもプルタタ曲が始まると会場はブワーッと明るくなります。

「怖いんだけど見たい!見たいんだけど怖い!」ってザワついていた空気が、

一瞬にして全部吸いこまれる様にして目の前の世界がパッと変わって見えるのです。

あの「魔法」がハイコーフェスには「なくてはならない存在感」で、

とにかくプルタタが登場した時の「独特な世界感」を皆さんにも見て欲しいのです。

 

歌う歌と言えば、これが超が付くほど「抽象的」です。

歌詞の意味なんかとても凡人には思いつかないくらいで、

とてつもなく全部がひっくり返っちゃっているので「理解する」なんて無理なのかも知れません。

でも「おとぎ話」みたいでもあり、「ファンタジー」みたいでもあり、「絵本」みたいでもあり、

難解なのかシンプルなのか分からなくてなるくらいに「不思議な不思議な世界観」です。

きっと聴く人によってイメージする世界も受け取り方も無限大なのが「プルタタの音楽」で、

「感動の質」が他の出演者とはちょっと違う方向を見ている気もします。

「世界観」って、ちょっと人と違ったりひねくれていたり、個性的な場合なんかによく使われますが

みんなの使ってる世界観なんか「プルタタ」を見たら1秒で綺麗にぶっ飛んで、

「本物の世界観」って言うがあるとしたら「プルタタの世界観」がまさに「それ」で、

「偽物」のどこにでもある「ぺらぺらの世界観」とは完全に一線を引いています。

 

去年の「jaaja」しか見た事のない人に違いを書くとすると、

「プルタタの音楽」って「Jaaja」が少し大人になったみたいな音楽です。

まだ少年だったJaajaくんが「青年期」に入ったみたいな、

jaajaを「よりスケールアップさせた感じの音楽」で、

「超抽象的」で「モノクロみたいな世界観」で、

「演劇」みたいな「オペラ」みたいな「ミュージカル」みたいな、

「伝統芸能」みたいな「神社のお祭り」みたいな、

「誰も知らない独りぼっちの宇宙から寂しそうに地球を見てる」みたいな、

「動物の死骸を拾い歩き、名前のない星をずっと数えて暮らしている」ような、

「少し埃っぽい得体の知れない音楽」で、

どちらにも「共通」して言えるのは「死生観」がはっきり出ているところで、

これはボクだけなのかも知れないけど、

「どこか遠い国の賑やかで寂しいお葬式」をイメージしてしまいます。

曲調の暗い、明るいに関わらず、生と死がいつも「裏側」にあって、

とは言え、そんな「難しいテーマ」を押し付ける訳でも無く、

この人たちが登場した瞬間に誰もが「しあわせ」になれるんだからそれが不思議で、

でも、そんな凄い人たちなはずなのに、

「ただあっけらかんと人生を遊んでる」様に見せちゃうのがこの人たちの「本物たる所以」で、

「感動の質」が「他の出演者とは完全に違う方向」を向いてる気もします。

あー、でも、ここだけ読んで「あー、プルタタの音楽ってそういう感じね」、

なんて分かった人がいたら天才ですよ、

「プルタタの世界観」なんて見なきゃ絶対伝わりませんからね。

 

 

ところで皆さん、「あなたは神を信じますか?」

突然も突然でビックリしたかと思いますが、

ハイコーフェスには「神様」が2人いて、

1人は斎藤キャメルさんで、もう1組がプルタタでした。

「この二組の出演者」って「ハイコーフェスになくてはならない存在」で、

変な話、ハイコーフェスの中だけで言うと「音楽」っていうモノを「越えてしまった存在」で、

もはや「音楽なんてどうでもよくなるくらいの存在」で、

「ハイコーフェスの歴史」を知らない人には「どうでもいい話」なのかも知れませんが、

ハイコーフェスが続く限り、ずっとあり続けてくれなければいけない人でした。

まさに「どうでもよくない存在」として、

長い間ハイコーフェスを見守ってもらっていたんです。

 

どうしてでなのでしょうね、

「楽しい事」をするために準備しているだけなのに、

「面白い事」をするために準備しているだけなのに、

ハイコーフェス当日を迎えるまでは「悩める時間」の連続です。

哀しかったり悩んだり、そんなんだからボクはほとほと疲れ果ててしまいます。

「何か」から助けて欲しい時、

許して欲しい時には決まって、

どうしてなのかいつも、

この二組の歌しかボクの心は受け付けなくなるんです。

きっと心が無意識に「救い」を求めていて、

「清めてもらいたい」ような、

「許してもらいたい」ような感覚になるんでしょう。

ハイコーフェスって「得体の知れない何か」に、

拭いきれない「罪のようなもの」を感じてしまった時は決まって、

最後は決まってこの二組を想い、

救いを求める様にこの二組の歌を聴いていた気がします。

 

「心細い時」や「何かにすがりたい時」に「祈る対象」って、

つまりは「神様」と同じですよね。

これがボクだけの話だったら「ただの思い込み」で済んだ事なのでしょうが、

「ボク」も「君」も「実行委員のみんな」も、

どうしてなのか「同じ気持ち」で「あの二人」を想っていたから、

あの二人が「ハイコーフェスの神様」である事は、

もはや否定のしようがなくて、

きっとハイコーフェスの事も自分たちの事も、

全部丸ごと肯定して欲しかったんでしょうね、

神様はいつもどこかでボクらの事を見てくれているはずだから、

「そのまんまでいいと思うよ」って、

「何もかも浄化して許して欲しかった」のだと想います。

ボクたちはハイコーフェスが続く限り、いつまでも「迷える子羊」だったからです。

 

なんとなくボクの勝手なイメージではね、

斎藤キャメルさんが「許す方の神様」で、プルタタは「清める方の神様」で、

「キリスト的な神様」と「神社的な神様」なのかなーって想っています。

そもそもボクは「神」も「仏」も信じていません。

信仰心なんてこれっぽっちも持ち合わせてなくて、

むしろ「神は自分の中にだけ存在する!」なんて想っている人間で、

死後の世界も無いと思ってるし、

ボクが死んだら遺骨を「粉末ミキサー」に掛けてふりかけにして食べて欲しいような人間で、

「君ほど信じていない人っていないよね!」って、こーちゃんに笑われるくらいです。

 

それがどうしてハイコーフェスには「神様」が必要なのかと言えば、

ボクには「慈悲」が足りないからです。

「慈悲」って、「仏様が人々をいつくしみ、情けをかけ苦しみを取り除くこと」らしいのですが、

もう少しバカでも分かりやすく噛み砕いて書くと、

「仏様がみんなの苦しみを無くしてくれて、楽しい事をたくさん与えてくれる事」で、

それがボクに出来ていたらハイコーフェスに「神様」なんていらなかった訳だけど、

ボクには「慈悲」が足りないから、

「みんな」の苦しみを無くすどころか、

真っ先に「ボクの苦しみを無くしてくれ!」なんて思ってしまう始末だったし、

「みんな」に楽しい事をたくさん与えるどころか、

それ以上の「重苦しい想い」を背負わせるばかりで、

そんな自分の中にある「邪鬼」を鎮め清めるためにも、

勝手に「プルタタ」に「神様」になってもらっていました。

なのでずっと「あの人たち」には「あの場所」にいて欲しかったんです。

どんなに時代は変わってもハイコーフェスの神様だけは変わりませんです。

(神様と仏様じゃあ全然違うじゃん!って口を挟みたくなるかと想いますが、

そこはプルタタが引き連れてるジャイアントステップスの巨大骸骨人形に免じて許して下さい!)

 

ハイコーフェスでプルタタの音楽に触れる事って、

きっとボクだけじゃなくハイコーフェスを愛する皆さんも同じ感覚かと想いますが、

「初詣に参拝に行ってお祓いをしてもらう」のと同じ感覚ですよね。

当日までどんなに苦しくても辛くても哀しくても、

結局「ハイコーフェスが世界で1番面白い」と思えたのって、

きっとプルタタがボクらに「慈悲」を与えてくれたからで、

だからあんなにも楽しくて笑っていられて、

ボクはこれまでに二度もプルタタのライブに登場させて頂いています。

1回目は一昨年で平井さんと澁谷くんと巨大な龍の持って登場させてもらい、

2回目は去年で近江さんと一緒にステージの上でドラムまで叩かせてもらって、

「進藤くんたちと一緒にやった方が、そっちの方が意味が出るんじゃないかと思って。」なんて、

「楽しい事」をボクらにたくさん分け与えてくれて、

去年ボクと近江さんが一緒に演奏させてもらった「ゼロ」と言う曲の間奏で、

ゆーにゃんさんはこんな言葉を叫んでいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お祭りっていうのは、ぼく思うけど、

俺たちはここにいるぞ、

最初から自由で今いるぞって言うのを、

確認するためにやってるんだと思うよ。

ぼくらは自由が好きです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「その空間を作り出してる出演者が偉い」とか、

「その空間を演出した主催者が偉い」とか、

「その空間に来てくれたお客さんが偉い」とか、

「誰のおかげ」とか「何のおかげ」とか、

本当に「どうでもよくなった」気がしたんです。

そんなことを全て忘れさせてくれて「誰のおかげ」で楽しいじゃなくて、

「ただハイコーフェスが楽しかった」気がしたんです。

「ハイコーフェスを越えていきましょう」、

それが去年ゆーにゃんさんから届いた「ハイコーフェスへのコメント」だったんだけど、

ボクはあの時あまりにテンションが上がりすぎてた、

持っていたドラムのスティックをあまりに強く握りしめすぎて、

演奏が終わった時には両手の皮がズル剥けになっていて、

でも不思議な事に演奏が終わるまでは「何の痛み」を感じてなかったんです。

ステージを降りる時にクミちゃんに「楽しかった」と言われて初めて両手に激痛が走ったんです。

つまりは「あの感覚」が「ハイコーフェスを越えるって事なのかなー」って

今になってそんな風にも想っていて、

実際、「ボクら」が楽しそうな姿を見て、

「みんな」もとても楽しそうに見えました。

自分らがステージに上がったからって訳じゃないけど、

でも正直相当良かった気もします。

大袈裟かも知れないけど「去年のハイライト」と言っても良いくらいです。

「楽しい」が連鎖してウネリとなって、「楽しいの坩堝」になっていました。

こんな風に書くと他の出演者の皆さんには本当に悪いと思いますが、

でも、あんな光景はプルタタとjaajaだけの光景で、

まるで「神々の戯れ」を見ている様な感覚でした。

 

去年、鈴木実貴子ズのドラムの高橋さんは「あの時の光景」を、

「プルタタにあれを見せられて負けたと思って悔しかった」と話してて、

「自分たちが到達できなかったところまでいってて悔しかった」と話してて、

普通出演者同士って「自分たちが1番」って気持ちが絶対あると思うから、

特にハイコーフェスは「愛情を独り占めしたくなるフェス」でも有名ですからね、

普通はなかなか素直に「負けた」なんて認められないものだと思いますが、

それでも「負け」を認めざる得ないくらいの「ウネリ」をプルタタは出してて、

素直に「あの存在感」を認めざる得ないくらいの「ヤバさ」が「プルタタ」にはあったんでしょう、

「プルタタと言う神を前に我々は何と無力なのでしょう!」って喜んで膝まずきたくなる「何か」が、

やっぱりこの人達のステージにはあった気がします。

 

プルタタには「神エピソード」が付き物で、続いてこんな事もありましたよね。

プルタタが会場に登場して来るとお客さんだけでなく出演者も漏れなくステージに釘付けで、

「KETTLES」のお二人なんて凄くビックリして目をキラキラさせて喜んでいたし、

「トムボウイズ」の皆さんもいつも目を丸くして手を叩いてくれていたし、

「鈴木実貴子ズ」の実貴子さんは真っ直ぐに正座して真剣に見入ってくれていたし、

「キャンディキャンディ」のユキコさんなんて、

「世界中探してもない平和があそこにあるよ」って言葉でプルタタを賞賛してくれました。

出演者同士ってきっとボクらには分からない「何か」があるじゃないですか、

仲が良いとか悪いとかじゃなくてバチバチの「何か」が、

でも「そんな事」すら忘れさせてくれるくらいの「何か」が、

それでも心が反応せずにはいられないくらいの「楽しさ」がプルタタにはあるんでしょうね、

「なんと言う事でしょう!神々は私たちに微笑みかけておられる!」って何度も手を合わせたくなる「何か」が、

やっぱりこの人達のステージにはあった気がします。

 

まだまだこんな事もありましたよね、

きっとあれも「神様の悪戯」なのでしょう。

プルタタが会場に登場した瞬間ってみんな後ろを振り向くじゃないですか、

「あッ!」みたいな、「出たッ!」みたいな、

もちろんボクも後ろを振り向くんですが、

体育館の一番前から見た景色が本当に「ドッキリ」を見てるくらいに素晴らしくて、

みんな同時に同じ方を振り向いて、

みんな一瞬びっくりした様な顔をして、

気がつくとみんな嬉しそうな顔をしてて

「待ってました!」みたいな、「コレ!コレ!」みたいな顔をして、

拍手をしたり、急いでカメラを構えたり、

口をあんぐり開けたり、子供がお母さんにしがみ付いたり、

プルタタはjaajaと通算で6回目の出演ですからね、

本当は皆さん「あの悪戯」が来るのは分かっているんです。

それでもみんな「分かってて」喜びます、

「分かってて」あんなに盛り上がってくれるんです。

それがボクは何とも面白くて思わずニヤニヤしてしまいます。

「悪戯」って分かってても「引っかかりたい時」があるじゃないですか、

バレバレって分かっててでも「やってやりたい時」があるじゃないですか、

「悪戯」ってお互いの「遊び心」があるから成立してる関係で、

「ハッハッハ!人間達が戯れておる!愉快!愉快!」って逆に神様も喜んじゃうくらいの平和な悪戯なら、

下界に住む我々はどんな悪戯でも受け入れちゃいますよね、

「神様の悪戯」についつい付き合いたくなってしまいますよね、

ハイコーフェスって一日中、最初から最後までクライマックスで、

「今日ここである事が世界で一番面白いと思ってきてくれて本当にありがとう」なんだけど、

あの瞬間こそが「その密度」が一番濃い瞬間にも見えて、

「プルタタがいてくれて良かったなー」って心からそう想う瞬間なんです。 

 

極め付けにもう1つ、せっかくだからプルタタメンバーの「神エピソード」も紹介しましょう!

別にそんなのどうでもいい事なのかも知れないけど、

最後だからこそ「どうでもいい事」をたくさん書きたいんです!

「どうでもよくなってからがハイコーフェスの出演者紹介です」

 

ボクがゆーにゃんさんを「神様」だと想ったのは、

ゆーにゃんさんの口からは「本当の事」しか発せられないからです。

「神様」が軽々しく「言葉」を発したりしない様に、

ゆーにゃんさんも軽々しく「ハイコーフェスの事」を語ったりしませんでした。

もう6回もハイコーフェスに出演しているのにまるで偉ぶらず、

ただずっと見守ってくれてると言うか、

ただ導いててくれるみたいで、

それがボクには心地良かったんです。

とは言え、ここぞ!って場面では手を差し伸べてくれて、

「どうでもよくなってからがハイコーフェスです」って言葉もそうだし、

「そのまんまでいいよ」って言葉もそうだし、

「自由も愛もロックンロールも全部ゼロです」って言葉もそうだし、

ここだけ切り取られても何が何だかさっぱり分からないと思うけど、

「答え」をそのまま教えてくれるんじゃなくてボクにいろいろと考えさせてくれて、

残念ながらボクは「悟り」を開く事は出来なかったけど、

おかげでこんなに素晴らしいハイコーフェスが完成したので悔いはありません。

 

続いてクミちゃん。

クミちゃんは誰もが認める「天照大御神」ですよね。

クミちゃんの「存在感」は決してゆーにゃんさんに負けていません。

むしろ何があってもクミちゃんにだけは敵いません。

ボクはクミちゃんの顔を見るだけ、毎年「悩み」が吹き飛びます。

吹き飛びますって言うか、吹き飛ばしてくれます。

クミちゃんには「芯」があります。

絶対にブレない「御神木」のような太い芯で、

クミちゃんの目を見ているだけでボクの弱さやウソを全部見透かされているようで、

クミちゃんを前にして「そんな小さい事」でくよくよしていたら笑われるだけだから、

いつもクミちゃんと顔を合わせる時は背筋が伸びる思いです。

ハイコーフェス6くらいからかな?

ボクはずっと顔を合わせる度にクミちゃんから「辛そう」って言われてて、

「せっかくのハイコーフェスなのに良い顔してないんだろうなー」って、

それをちょっと気にしていたんだけど、

去年はどうしてか前日に顔を合わせた瞬間に「今年は顔色良い!」って言われて、

「辛くなさそう!」って言われて、

確かに去年のハイコーフェスって「良い風」が吹いてましたよね?

「楽しい」が何倍にも色濃く見えましたよね?

実はクミちゃんにそう言われた後に大森靖子さんにも同じ事を言われて、

「今年何これ!めちゃめちゃ良いじゃん!最終回でしょ?サイコーじゃん!」って褒められて、

ずっとハイコーフェスに「想い(重い)空気」を吹かせていたのはボクだったんだなーと反省して、

なので今年もクミちゃんに「顔色占い」してもらうのを楽しみしています。

ボクは「占い」が大嫌いなんだけど、クミちゃんの占いだけは信じています、

そんな訳で何か悩みがある皆さんはぜひクミちゃんに相談して見てくださいね。

 

続いてマドカさん。

まずマドカさんのハープを弾く姿がそれだけで「神」です。

まさに「ビルマの竪琴」ですからね。

プルタタの音楽の中でマドカさんのハープやピアノは実に効果的で美してくて、

「ありがたさ」みたいな、「神々しさ」みたいなのがさらに際立って、

ついつい手を合わせて「黙祷」してしまいます。

ボクがマドカさんの一言で痛烈に覚えているのが「また遊べば良い」です。

「また遊ぼうね」はカヨちゃんの名言でハイコーフェスでは有名ですが、

マドカさんは「また遊べば良い」です。進化系です。

マドカさんは「別れ際」にいつも「また遊べば良い」と言ってくれます。

いつも自分に言い聞かせるみたいにその言葉を口にして、

ボクが淋しさに負けない様にと、

「お守り」を渡すみたいにいつもその言葉をボクに残してくれます。

去年はスケジュールが合わずマドカさんはいなかったので、

最後にもう1回ハイコーフェスが開催出来た事はマドカさんともう一度遊べるって事で、

神様との約束を破ったままハイコーフェスは終われないし、

「お守り」がなくてはボクはこの先不安だから、

おかげでボクは心残りなくハイコーフェスを終わりに出来る訳で、

ハイコーフェスが終わるのが淋しいって人はぜひマドカさんから「お守り」を貰ってくださいね。

効果は実証済みです!

 

続いてトッキーさん。

単純に「去年のjaaja」と「プルタタ」の違いを書くと、

メンバーに「鍵盤のマドカさん」と「ドラムのトッキーさん」がいるかどうかってのがありますが、

ハッキリと断言して言えるのはトッキーさんのドラムが入る事で段違いです。

「迫力が出る」って安っぽい言い方かもだけど、一気に「神様の気配」が出るんです。

神社で参拝してて風が吹いたり、木が揺れたり、タイミング良く鐘の音が聞こえたりすると、

「あ、神様の気配がするねー」なんて、小さい頃に婆ちゃんから教えてもらいましたが、

トッキーさんのドラムって「あの気配」と凄く良く似てて、ザワっとします。

「本当にそこにいるんじゃないか?」って、

「神様が出てくるんじゃないか?」って、

なんて言うか「気」みたいなのを感じるんです。

地鳴りとか共鳴みたいな感じで遠くから近づいてくる感じもあって、

「なんか来る!」って第六感を刺激されてザワッとするんです。

それに加えてトッキーさんって見た目は怖いけどめちゃめちゃ優しくてナイスガイな人で、

何より「進藤くんの大ファンです!」って言ってくれるからボクはそこが好きで、

こんなバカも見捨てないところも「神様たる由縁」なんです。

 

最後はキノちゃん、ニノちゃん。

あの子たちの「道化」はプルタタの「核」みたいなものです。

プルタタって「遊ぶ事」がテーマみたいな人たちで、

「生という得体の知れない出来事を遊び続ける」のがプルタタで、

なので、ステージに立つあの子たちをを見ていると、

「大人」がいかに「作り物」なのかに気づかされてしまいます。

本当の「遊び」がどんなモノなのか知っているのは他でもないあの子たちだから、

あんな幼い子供がステージに立つ事がある意味「プルタタの核」になってる気がします。

生まれながらに「ゆーにゃんさん」と「クミちゃん」の血を受け継ぐ「神の子」ですからね。

「子ども」だけど「計り知れない存在感」、「計り知れない潜在能力」ですからね。

「可愛い!」なんて甘く見てると地獄に叩き落とされる可能性もありますから、

どうぞくれぐれも「ご注意」して見てくださいね。

 

 

最後まで全然音楽と関係ない事ばかり永遠に書いてきましたが、

今年注目すべきは「プルタタ+」って名前になってるところですよね、

この「プラス」ってところが重要で、

ハッキリと「誰が来るよ」って言わないところがなんとも神様らしい憎い演出ですよね。

まさに「神のみぞ知る」ですからね。

実は未だにボクも「ハッキリ誰が」とは聞かされてなくて、

だからこそ「祈る」訳ですよね、あの人たちに会いたい!って、

いつも含みを持たせて意味のないことに意味を持たせる天才がゆーにゃんさんですからね、

きっとボクらの「想い」を全部踏まえてくれた上で、

「プルタタ+ジャイアントステップスA2C+石丸だいこ」で登場かなーとボクは想っています。

 

ジャイアントステップスと言えばやっぱりあの巨大な骸骨の操り人形ですよね。

もうあれ自体がすでに「ハイコーフェスの神様」で、

あの骸骨を見るためだけにハイコーフェスに来てもらって良いくらいです。

あの神様は正式には「巨大傀儡」って言うらしく、

4メートルくらいあるあの骸骨が会場を「異空間」に変えて、

一瞬にして「感動の坩堝」に誘う「ハイコーフェスの秘密兵器」です。

今年も「ジャイアントステップスの若頭」と呼ばれる「A2Cさん(アツシさん)」が恐らく登場してくれて、

まるで意思があるかの様に、あの巨大骸骨が自由自在に操ります。

「A2Cさん」って存在自体が「あの巨大骸骨」に負けじ劣らずの神様でしたよね。

圧倒的なまでに全身に彫りこまれた刺青はそれだけで「芸術品」で、

お釈迦様の蓮の池に並ぶほどの「美しさ」と「華」もありましたよね。

正直見た目はちょっと怖いかも知れないけど、

トッキーさん同様に怖いのは見た目だけで、めちゃめちゃやさしく話しやすい超紳士です。

特に女性への敬意が凄くて、

「女性が頑張ってたり楽しんでるフェスは絶対成功で、ハイコーフェスはまさにそれだよ!」って言ってくれたので、

女性の皆さんはぜひ「A2Cさん」に熱いキスをしてあげてください。

 

そしてこちらも恐らく今年も登場してくれる「石丸だいこさん」について紹介しますね。

初登場の去年のインパクトたるや、皆さんの脳裏に焼き付いて離れない事かと思いますが、

「石丸だいこさん」は一言で言うならば「ダンサー」です。

「ダンサー」って書いちゃうと「ただのダンサー」みたいな感じだけど、

「ただのダンサー」とは完全に一線引いて見えます。

「表現師」って感じもするし、「舞踏家」って感じもするし、

まずハッキリと言えるのは「只者ではない!」って事です。

ボクも去年初めて生で石丸だいこさんの踊りを見ましたが、

「今まで見てきたダンス」や「今まで見てきた踊り」とは「魂」って部分から違って見えて、

「人間があんな動き出来るのか!」ってカルチャーショックを受けるくらいで、

事実、ボクには「神様」が踊ってる様にしか見えませんでした。

「サニーサニーガールさん」も石丸だいこさんの踊りにえらく感動していて、

「なんか生きてるって感じがして凄く良かった」って言ってくれてたけど、

あれは「神様」が我々に「生きる」って事の美しさを見せてくれていたのかも知れませんね。

とにかく「只者ではありません」からね、相当「只者ではありません」からね、

「大人」か「子供」か分からなくなるくらいに究極までに削ぎ落とした細く小さな体で、

「誰にでもできそうな動きで、誰にも真似できない動き」を見せてくれるんです。

華麗なステップなんか必要ありませんよ、綺麗にクルクルなんか回ったりもしません。

でもどんな素敵なダンサーよりも明らかに「踊って」いて、

究極は「目玉」だけでも、「口」だけでも踊っていて、

ダンサーですからね、動いてナンボのはずなのに、

むしろその場から一歩も動かなくても「踊って」見せてくれるから、

「踊る」って「概念」を180度ひっくり返して見せてくれるので乞うご期待です。

 

神々が揃い踏みで何が起こるか怖くなりませんか?

ハイコーフェスが終わった途端に天変地異でも起こるんじゃないでしょうか?

「あるべき場所」に「揃うべきして揃って」しまった「神々の共演」がついに完成です!

「目に見える以上の圧倒的な存在感」が神々たちの持ち味ですからね、

目を閉じてても感じられる「後光の光」を全身に浴びてくださいね。

なので、そんなに「音楽」に興味なんてなくても全然平気です、

会場に「この人たち」が出て来た途端に「後光の光」が見えるので、

きっと誰もがビックリもするし、釘付けにもなるし、

何より「ありがたい気持ち」になれるので、

そしたらほら、それだけでもはや「しあわせ」を手にした気分になりませんか?

ボクは「そんな不思議な力」を皆さんにも見せてあげたいんです。

 

「あなたは神を信じますか?」

なので「ハイコーフェスに1回行った事があるからごめんなさい」って人も、

「ハイコーフェスに1回行ったけどそんなに面白くなかった」って人も、

まだボクに騙された事のないって人も、すでに1回騙されたって人も、

もう1回だけボクに騙されたと思って、プルタタ+を見に来てください。

もちろん「名前も聞いた事がないしわざわざ見なくていいよ」って人もいると思いますよ、

「jaajaの時に見た事あるからわざわざ見なくていいよ」って人もいると思います。

でも、どんな「理由」があっても「わざわざ見なきゃいけない」のが、

「わざわざ見なきゃ後悔する」のが「ハイコー最後のプルタタ+」なので、

「神々が共演する」今年のハイコーフェスって、

それだけで半分「奇跡」が完成しているようなものなんです。

誰だって「必ず」です、

この人たちが登場した瞬間に誰もが「しあわせ」になれますから、

「蓮の池のお釈迦様」に会えた様な「ありがたい気持ち」になれますから、

仮に他の出演者に全然興味が持てずに「その瞬間」だけがその日たった1度だけの幸せだったとしても、

「それだけ」で何の悔いもないくらいに「別格」なんです、「見る価値」しかないんです。

 

なので、「本当に世界で1番面白いのかなー」なんて、

そんなどうでもいい事にこだわって、

ハイコーフェスの事を信じきれなくて、

「そんな理由」で「行こうか行かないか悩んでる」くらいなら、

どうぞ今すぐに前売りチケットの予約をしてください。

「しあわせになれますように!」なんて「神社に参拝」なんて行ってる場合じゃないし、

「最近良い事無くて!」なんて「神社でお祓い」なんてしている場合じゃないし、

「このままで良いのでしょうか?」なんて30分3000円の「占い」なんて頼ってる場合じゃないし、

「お布施」も「ご祈祷」も、どうせ高級外車になるだけです。

「あなたは神を信じますか?」

「神様」なんて書くと大袈裟に思われるかも知れませんが、

「神様」ってきっとそんなに「たいそれた事」だけを指してる訳じゃなくて、

きっとみんなの心にいるはずで、見返りなしに寄り添ってくれてるはずで、

だからこそ「ハイコーフェスを信じて良かった」って、

「ハイコーフェスでプルタタを見れてしあわせだ」って、

それだけできっと「救われる人」がいる事をボクは知っているから、

「プルタタ+」って「神々の戯れ」を見た事で「救われる世界」がある事を、

ボクが責任持ってハイコーフェスで「証明」してあげます。

 

「信じるものは救われます!」

 

「ハイコーフェスを信じてくれない人なんか地獄で悔いてな!」

 

「あなたは神を信じますか?」

 

「あなたは神を」